昭和54年05月13日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」

 大きな信心と。大きな信心が出来れば大きなおかげが受けられる道理ですよね。ですから大きなおかげをお互い頂きたいのですから、いよいよ大きな信心せにゃいけません。大きな信心しなければならないと、言う大きなと言う事は、結局そのまま大きな心になる事ですよね。大きな心になることです。私は今朝からお言葉で、『話せば分かる』と言う事を頂きました。別に私が心の中に、この事は一つ話しておかなければならんと、言う様な事は何にもないのですけれども、話せばわかる。
 いろんな問題なんかがありますよね。お互いの考え違いとか思い違いが、一つ問題を産んでおる様な場合がありますよね。そう言う時には話しを致しますとね、あぁそんな事でしたかと、分かる世界があるわけです。気持ちの良いもんですね。分かり合うと言う事は気持ちが良い。けども今日私はこの第二十五節を頂いて、もう話せばわかると言う間はね、結局まだ大きなおかげは受けられないと思う。そりゃ私共の間にだけは、交流したり分かりあったりするだけの事ですからね。家庭の中でもそうです。
 やはりあのう円満を望まない、願わない者は居ません。何かの事でちょっとこう行き違いがあっておる。そこに問題があるそこで話し合う。話し合うと問題がもうその場で解決する。ところが不思議にねこれはほんのその場だけが解決するだけ。私は今日はそう言う時にですね、黙って治めると言う事ですね。今合楽で言われる。いわゆる自然、サンズイ偏にム口と書いある。治めると。
 自然に起きて来た事をそれを無口で黙って治める。そして黙って治める事の素晴らしさと言うものは、その波紋と言うか余韻と言うかね、それが素晴らしい。もうこれはねもう本当にね、もう言わんで済むことが殆どです。それでも何か問われた時なんか黙っとかなんち、言う事じゃないですけどね。何か尋ねられたらそれはこうですよと簡単に言えれること。もうこちらから一つこれだけは言うとかなければならない。これだけは分かり合うとかなければならないと言う間はまだ小さい心です。
 言うならば神様が御承知の世界、神様だけが知ってござる世界そう言う世界にね、住まわせて貰うと言う事が大きな信心です。今日私はその大きな信心とはまぁ、いろいろにございますよね。大きな信心には行きづまりがないと言われております。もう大きな信心とはいわゆる、福岡の初代が四神様から頂かれたと言うね、とにかく福岡の町に布教に出られる時に、四神様が仰ったと、「福岡と言う所はなかなか学者気どりの、まぁ今で言うならインテリの人が多い所です。』と。
 「そういう所で、私の様な無学の者が出ましても」と言う事を申し上げられましたらね、『吉木栄蔵、馬鹿と阿呆で道を開け』と、仰ったと言う事です。馬鹿と阿呆これが福岡の信心です。その流れをくむ、ま合楽あたりも私共も言うならこれに徹しておる。その事が黙って治めると言う様な事になって来たり、成り行きを尊ぶとか大切にすると言う事になってきたんです。もう一番大きな信心はもうこれです。
 だからね馬鹿と阿呆で治められる。もうこれだけは言うとかなければ、これだけは分かつてもらわなこちらが切ないと、言う時がありますけどもね。そう言う時を例えば、久留米の石橋先生なんかは、もうそれこそやっぱり切のうて切のうてと言う事がありますよねお互い。そのとき神様が『外へ出て見よ、外へ出て見よ』と仰る。そして大空をこう仰ぎ見られながら、不思議にこういろんな夜の、もうそれこそ『いっぱいの星空を眺めておるとね、いつの間にか心が大きうなる』と神様が仰せられたと言う事ね。
 大空を見よ大空をながめておればね、心がいつの間にか大きうなると。切ない時にそうしたがいいですね。これは言うとかなければぶが悪い、言うとかなければ悪く思われる。そう言う時なんか言えば、あぁそうでしたかとすぐ分かるね。だからまそれでいいようなものですけどね。これではね、大きくなる稽古は出けんですね。あの時はどうでしたか、あぁやったこげん私は思うとるがと。
 例えばそのう問い掛けられたりした時にはね、ま答えなきゃなりませんけれども、こちらから言うおかなければ、こちらから言うてやらなければ、と言った様な事は、もう一つあのう言わんで済むおかげを頂いてみなさい。こんな有り難い事はないって。またこんなに素晴らしい、勿論黙ってじゃないですから。神様におすがりしての事ですから。信心する者はですからもう必ず対照はどんな場合であっても、神様に心は向いておる訳ですから。神様が裁きなさる。
 神様が治めなさる時のその微妙さと言うか、もうデリケートと、言うでしょうかね、もう実にそれは体験もうもの言わんが一番よかごとになって来るです。素晴らしいです黙って治められる。これは以前私と親教会の間にいろいろ、それこそ水を差す人がありました。親先生がカンカンに怒られる。私が行くともうそれこそカンカンに、まぁようあげな優しい、おとなしい先生があんなひどい事をよう言われるものだと思う位、ひどい事を私には仰っとったです。
 だから私が親先生がこう仰ったと、人に言うても「そげなこつ大坪さん嘘じゃろ」と、「あんなおとなしい人がそげなこつ言いなさるはずがない」ち。それでも先生こうですよ。あぁですよと説明すると「そうじゃろの、私もそげん思とった」ち、言うてすぐ解決しよったです不思議に。もうそして本当に何と言うでしょうかね。私と親先生とが、どんな問題な時であっても話して分かったら、もう本当に何とも言えんそれこそ「会うたその夜の二人の仲を見せてやりたい」と、言う様な歌がありますがね。
 そう言うものが私と親先生との間にはいつも交流しよったです。不思議でした。ところがですね、そうして分かり合うておってもまた、ひと月ならひと月ばかりするとまた問題がおこってですね。また親先生がカンカンに怒んなさらやんような事が起って来よったです。だから暫くはその都度、都度に説明もしまた求められると、わざわざ説明しげも行きよりましたけどね。私はもうだめこれは神様の御都合だと思いましたね。だからもう説明せん事に決めました。
 もうその赤面弁慶になって言いわけする必要もないと言いました。それからおかげを頂いたですね。そしてまぁ今日あたりの様なお話しが出来る訳です。もう黙って治める事の素晴らしい事。私は今日その大きな信心をせよ、大きな信心には行き詰まりがないと言う様な事を申しておりますがね。確かに大きな信心には行き詰まりがありませんです。いわゆる限りないおかげに繋がる事の出来れる信心、それを私は大きな信心だと思うです。皆が大きなおかげを頂きたいのです。
 一つねもう実験実証と言う事をここで盛んに言われますでしょ。もう合楽理念の中に黙って治めると言う事は、これは合楽理念を一遍紐解いた方ならば、必ずここん所が出て来るですよね。黙って治めるんだよとね。自然におきて来た事を無口で、もうこれが一番と、言うふうに黙って治める、黙って治めると言う事が言われますども、これはどういう問題であっても黙って治めるが一番です。
 いやこれだけは言うとかにゃいくめぇち、言うこつは絶対ないです。けどもそこに、なら問題がね、問われる場と言うものがあった時には、そりゃこうですよあぁですよと、そりゃ説明しなきゃいけん。黙っとると腹かいとると思われたらいかんからね。だからもう心の中が豊かになると言う事は、私はやっぱし大きくなると言う事だと思うんです。もう絶対おかげが大きくなって来るですこれはね。私もどっちかと言うと大変神経のこまい男ですから、もういろんな事が気になって気になって仕様がなかった。もうそれこそ微に入り細にわたって、頭の中での働きがね。
 私は昨日、朝の食事の時に家内と、繁雄さんと三人でしたかな、お茶をなさる山本さんがおられたでしょうか。何の事からだったでしょうか。あぁそうそう福間の叔母さんが、今福間に居らずに三番目の息子の所にいってるんです。それがこっちさん来るのに三回位乗り換えなんならんらしいんですよ。それが昨日も話した様に、もう昔風に言うと八十今風に言うと満七十九歳になるそうです。
 「お若いねぇ」と言うて驚いたんですけれども。「よう叔母さんあんたは乗り換え乗り換えして来るとに来きるね」ち言うて言うた事でした。普通の者なら当たり前ですよね。ところが私はもう絶対出来んだろう、と言うて話した事でした。で此頃古川に家内と二人で参ります時にも、その私が一人で行く様に家内が思うとったらしいんですよね。「いいや、そげな事は出来んばいお前が来んなら一人じゃ行き来らんよ」ち、言うけん家内が大笑いしますけど、これは本当ですから仕様がないです。
 私に財布と時計をもし持たせたらね、こんがらがっちゃうんです。時計が何時ち言う事考えよったらそこの中に財布が入っとるち、いう事がわかったらもう私な頭はこんがらがるです。今そうです。だから本当に人間的には本当に馬鹿と同じこっちゃろと思います。だからおかげでですね、馬鹿と阿呆で道が開けて行く訳です。皆もそう思いなさるでしょう。金ばねずうっと数えよると、しまいにはわからんごつなるです。
 これはもう不思議です。ところがこうやって話しを致しておりますとですね、もう何十年前の事が頭の中にありありと出て来るです私はね。そんなかと思うてお祝詞なんかもですね、人の祝詞のこれは良かなと思うたら、覚えて帰ってくるです今でも。だから結局まあ段々大きくなる稽古をさせて頂きよったら、神様が私を占領してしもてござるなと、そんな感じがするです。そすとどう言う事になるでしょうか。私は神様と言う事になる。神様に占領されてしもとるです。
 確かにそうですね、もう大きな心だからこれをんなら普通から言えば合楽の先生は本当、馬鹿ばいな阿呆ばいなと言う事になるわけです。言うならば本当の意味においての馬鹿と阿呆で道を開いて居る事になるのです。皆さんに今馬鹿になられたら、そりゃ困んなさいましょうからね、けどなる稽古をなさいませ。いわゆる黙って治める。大きな信心とはこれだもうこれに極まる。大きなおかげを頂きたいならば、大きな心にならないけん。大きな心と言や神様の心を心とする様な心だと思うです。
 だからまぁ人間づき合いが出来んごとなる。もう確かにそうです。神様との神様づきあいが出来る様になる。それを私は御神徳と言うものじゃないだろうかと、こう思うんですけれどもね。一段一段信心が進んで行くと言う事は、一段一段自分の心が豊かに大きくなって行く事だと思うのです。そしてもう黙って治めると言う言葉も使わんで良い程しに心の中は、平生でそれにもうそれに対して言う事はいらん。また聞く事はいらん不思議ですね。そこにはね言うならば大きなおかげが約束される。
 いやいやもっともっとわたし自身も大きうならななりません。豊かにならなきゃなりません。が私は合楽理念でいわゆる大きくおかげを頂くためには、どう説いてあるかと言うならば、今日に様なふうに説かなきゃならんのじゃないかと言うふうに思います。そりゃ話せば分かる。成程わかります。ところがね話してもわかるけども、もう次にはまたわからない問題が、出来る時には早く悟らにゃいかんです。
 私と親先生の時がそうでした。話せば「そうじゃろの」と言うて分かって下さるんです。けども次にはもう分からない問題が出来て、先生をカンカンに怒らせてるんです。そのたびにんなら、また説明しよってもいつまでたっても同じ事です。だからそう言う事にホッと気付かせて頂いたら、あっこれはもう言うちゃならん、説明せんでも良いもういよいよ大きうなれ、大きうなれと神様が言いござるなと。
 悟らせて貰うところから、本当の意味でのすっきりしたね黙って治める、と言う信心が身に着いて来ます。そう言う信心を私は大きな信心だと。信心をするなら大きな信心が良い。大きな信心には迷いがない。行きづまりがない。言うならばここにあります。『迷い信心ではいかん、一心と定めい』とこう仰っておられます。だからどう言う風に一心と定めるかと言うたらもう、本気で黙って治めると、一心と定めると言う事になるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。